不明者2584人 娘の供養信じて [ニュース]
<大震災4年>涙ふいて歩こう 娘を思い、供養の旅
毎日新聞 3月10日(火)22時46分配信
<大震災4年>涙ふいて歩こう 娘を思い、供養の旅
◇岩手・宮古の夫婦 勧めてくれた北陸へ
家族を、マイホームを、ふるさとを奪った東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から4年がたつ。
癒やしようがない傷を心に抱えながらも、被災地の人々は顔を上げて生きていく。
娘が生前に勧めてくれた北陸への旅を、北陸新幹線が14日に開業する機会に実現させよう。
今も行方が分からないままの娘の供養になると信じて--。
東日本大震災の津波で、岩手県宮古市崎鍬ケ崎(さきくわがさき)の大工、山下啓一さん(62)と妻真知子さん(同)は、看護師の長女留美子さん(当時34歳)と、啓一さんの母チタさん(同81歳)を失った。
消防分団長を務めていた啓一さんはあの日、自宅を飛び出して集落の水門3基を閉鎖し、高台から海の様子を見守った。
その時、背後にある自宅の方から「津波だ」と留美子さんの叫び声が聞こえた。
仙台市から来ていた友人をJR宮古駅へ送るため、車で出掛けているはずだった。
「空耳だ」と思った。
津波は高さ約15メートルの崖を駆け上がり、自宅を押し流した。
その後、近所の人から「車が帰ってきて、娘さん2人が乗っていたよ」と知らされた。
列車が止まり、引き返してきたらしい。
ぼうぜんとなった。
留美子さんも、友人も、自宅にいた足が不自由なチタさんも、行方不明になった。
3カ月後、約200キロ離れた宮城県の松島湾で、留美子さんのリュックサックが見つかった。
浜辺に漂着したという。
市から連絡があった時は信じられない思いだった。
リュックは、旅好きな留美子さんに長男(34)がプレゼントしたものだった。
夫婦は「留美子が帰ってきた」と泣いた。
釣りが趣味の娘がいつか船を持ちたいと取得した小型船舶操縦免許証やネックレス、手帳などが入っていた。
「人を喜ばせるのが好きだったから、形見に残してくれた」。
夫婦は一つずつ砂をはらい、泥をぬぐった。
啓一さんは「家族を守れなくて何が消防団員だ」と自分を責めた。
長男は「父さんは役目を果たした」と慰めたが、2011年12月に退団した。
13年夏に別の高台に自宅を再建し、ほっとしたのもつかの間、啓一さんは昨年8月、軽い脳梗塞(こうそく)で倒れ、12月には心筋梗塞も患った。
目立った後遺症はなく、今は留美子さんが震災1カ月前に買ってくれた軽トラックで住宅再建工事の現場に通う。
夫婦とも、少しは今後の人生を思い描く時間を取り戻している。
震災の前、夫婦で旅の本を見ながら「北陸に行ったことがないので、行ってみたい」と話していると、留美子さんから「お金を出すから、行ってきたら」と勧められたことがあった。
北陸新幹線が開業したら、留美子さんの思い出を抱きながら金沢市の兼六園などを巡る予定だ。
「2人で旅をすれば供養にもなるかな」と真知子さん。
啓一さんが続けた。「前を向いて生きなくては」【鬼山親芳】
毎日新聞 3月10日(火)22時46分配信
<大震災4年>涙ふいて歩こう 娘を思い、供養の旅
◇岩手・宮古の夫婦 勧めてくれた北陸へ
家族を、マイホームを、ふるさとを奪った東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から4年がたつ。
癒やしようがない傷を心に抱えながらも、被災地の人々は顔を上げて生きていく。
娘が生前に勧めてくれた北陸への旅を、北陸新幹線が14日に開業する機会に実現させよう。
今も行方が分からないままの娘の供養になると信じて--。
東日本大震災の津波で、岩手県宮古市崎鍬ケ崎(さきくわがさき)の大工、山下啓一さん(62)と妻真知子さん(同)は、看護師の長女留美子さん(当時34歳)と、啓一さんの母チタさん(同81歳)を失った。
消防分団長を務めていた啓一さんはあの日、自宅を飛び出して集落の水門3基を閉鎖し、高台から海の様子を見守った。
その時、背後にある自宅の方から「津波だ」と留美子さんの叫び声が聞こえた。
仙台市から来ていた友人をJR宮古駅へ送るため、車で出掛けているはずだった。
「空耳だ」と思った。
津波は高さ約15メートルの崖を駆け上がり、自宅を押し流した。
その後、近所の人から「車が帰ってきて、娘さん2人が乗っていたよ」と知らされた。
列車が止まり、引き返してきたらしい。
ぼうぜんとなった。
留美子さんも、友人も、自宅にいた足が不自由なチタさんも、行方不明になった。
3カ月後、約200キロ離れた宮城県の松島湾で、留美子さんのリュックサックが見つかった。
浜辺に漂着したという。
市から連絡があった時は信じられない思いだった。
リュックは、旅好きな留美子さんに長男(34)がプレゼントしたものだった。
夫婦は「留美子が帰ってきた」と泣いた。
釣りが趣味の娘がいつか船を持ちたいと取得した小型船舶操縦免許証やネックレス、手帳などが入っていた。
「人を喜ばせるのが好きだったから、形見に残してくれた」。
夫婦は一つずつ砂をはらい、泥をぬぐった。
啓一さんは「家族を守れなくて何が消防団員だ」と自分を責めた。
長男は「父さんは役目を果たした」と慰めたが、2011年12月に退団した。
13年夏に別の高台に自宅を再建し、ほっとしたのもつかの間、啓一さんは昨年8月、軽い脳梗塞(こうそく)で倒れ、12月には心筋梗塞も患った。
目立った後遺症はなく、今は留美子さんが震災1カ月前に買ってくれた軽トラックで住宅再建工事の現場に通う。
夫婦とも、少しは今後の人生を思い描く時間を取り戻している。
震災の前、夫婦で旅の本を見ながら「北陸に行ったことがないので、行ってみたい」と話していると、留美子さんから「お金を出すから、行ってきたら」と勧められたことがあった。
北陸新幹線が開業したら、留美子さんの思い出を抱きながら金沢市の兼六園などを巡る予定だ。
「2人で旅をすれば供養にもなるかな」と真知子さん。
啓一さんが続けた。「前を向いて生きなくては」【鬼山親芳】
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